少年キングと水島新司
水島新司といえば「野球漫画の巨匠」と言われる。新潟市出身、実家は魚屋の水島は
子供の頃から絵を描くのが大好きで、将来、漫画家になりたいと夢見ていた。
しかし家が貧しく高校進学が叶わず、魚市場で働きながらマンガを描き、
1958年(昭和33年)に大阪の日の丸文庫(貸本出版社)の新人賞に入選し、
それを契機に単身大阪に出て、光伸書房(日の丸文庫の版元)の住み込み店員として
働きながらマンガを描き続け、やがて「日の丸文庫のエース」となり貸本マンガを
量産した。とくに「水島新司爆笑シリーズ」は人気で22巻まで出版された。
しかし昭和30年代後半は少年週刊誌時代で、「マンガ雑誌は小遣いで買うもの」
という習慣が定着し、全国に何万とあった貸本屋は、街からどんどん消えていった。
貸本マンガに未来はないと感じていた水島は、1964年(昭和39年)仲間とともに上京し、
東京の雑誌出版社に作品を発表しようと決意する。
貸本マンガの大作家、水島新司を最初に起用したのが、週刊少年キングだった。
昭和40年、二代目の少年キング編集長になった金子一雄は新しいフレッシュな描き手を
探していた。
そんな金子のもとに編集部員の鈴木清澄が「なかなかいいですよ」と水島の作品を持って
きた。
資料には「作品を持ってきた」としかないが、多分、水島はキング編集部に持ち込み作品を
預けていたのだろう。
それを読んで「面白い」と思った金子は早速、水島を起用。
1966年(昭和41年)3号(前年の年末発売)に「少年鷹王」を発表、後の
「野球漫画の巨匠」水島新司の東京メジャー誌デビューとなった。
金子編集長は水島にキング本誌、別冊少年キングに読み切り作品を描いてもらいながら
連載の機会をうかがい、同年45号より「下町のサムライ」の連載をスタート。
水島新司は念願の少年週刊誌に連載を持つことを実現した。
「下町のサムライ」は大ヒットはしなかったが、読者の支持を受け、翌67年の37号まで
一年弱の長期連載となった。
この年より三代目の編集長となった小林照雄は、才能豊かな水島新司と漫画原作の
第一人者、梶原一騎とのジョイントを企画。
38号より「ファイティング番長」(原作・梶原一騎 画・水島新司)の連載を開始。
これも一年間続き翌年の40号で終了した。
こまで水島新司の作品は、他誌に発表したものも含めてヒット作ていえるものはなかった。
水島は大阪時代から「人情もの」を得意にしたが、作風が暗く、また野暮ったく、
多くの場合主人公は貧しかった。
読者は少年マンガに明るく夢のあるものを好む。作家はどうしても自らの生い立ちが
反映されたものを描くものだが、水島はその傾向があまりにも強かった。
少年画報社の編集者は、水島がいちばん好きな「野球モノ」を依頼したが、
その野球マンガもスカッとした明るさが無く、暗い悲しい作品になってしまった。
(例・別冊少年キング「青春の牙」)描いても描いても人気が出なかった水島は、
大いに悩み、絵柄と作風を変えることを決意する。
参考にしたのは、荒削りながらエネルギッシュな本宮ひろ志と、大阪時代からの友人、
政岡としやの型破りな絵柄だった。
そして1970年、週刊少年サンデーに「男どアホウ甲子園(原作・佐々木守)」を発表。
初めての大ヒットとなった。
その後の水島新司は「ドカベン」(週刊少年チャンピオン)、「野球狂の詩」
(週刊少年マガジン)、「あぶさん」(ビッグコミックオリジナル)を代表作とする
メガヒットマンガを連発して、超売れっ子漫画家になっていったのはご承知のとおりだ。
では、「少年キング」での水島新司はどうだったかというと、1972年(昭和47年)
「輪球王トラ」(原作・牛次郎)、同じく72年、「ヘイ!ジャンボ」、1974年(昭和49年)
「アルプスくん」と連載を続けるが、ヒットしたものはなかった。この3作品は、
サイクルサッカー、サッカー、プロレスと野球モノてはなく、野球マンガを期待する編集部
との間に齟齬が生じた。水島は他誌に野球マンガを描きまくっており、それ以外のスポーツ
モノでも勝負できる自信があったのだろう。実際に水島と親交があった人に聞くと、
彼は野球以外にも関心が広く、麻雀、将棋、相撲が好きで、プロレスもよく見ていたらしい。
「ドカベン」も最初の頃は柔道マンガだった。
水島が最後にキングに発表したのは読み切りの「ガラスのシンデレラ」
(1975年5-6合併号 原作・史村翔)で、以後キングには一切描いていない。
なぜ、キングと「絶縁」したのか、その理由は不明だが、原稿料が折り合わなかったと
推察する人もいるようだ。
「原作の帝王」梶原一騎は、少年読み物で、「少年画報」でデビューしたが、
その恩を忘れることなく、長きにわたって「少年画報」「少年キング」に書き続けた。
デビュー時の恩人である金子一雄を、自ら催す式典ではいつも上座に座ってもらったという。
対して水島新司は売れない時代に作品を載せ続けてくれたキングに貢献しようという
気はなかったのだろうか。
ここからは私的な話になるが、私の母は水島新司の幼なじみだ。実家は床屋で水島の
魚屋のすぐ近く。
4人姉妹の次女の母は、子供の頃から絵が上手く、年下の水島は私の母を
「絵の上手なお姉さん」として、「絵を描いて」と紙を持って追いかけてきたという。
小柄でやせっぽちだった「魚屋の新ちゃん」を今でもよく覚えていると言っている。
水島が「大先生」になって、千葉そごうでサイン会をすることになったとき、
母は行くかどうか迷ったそうだ。
けれどあの戦争中の貧しい時代を知っている人間に会うのはいやだろうと行かなかった。
私が「少年キングを見捨てた」と水島を少しでも悪くいうと
「すごい苦労をして偉くなったんだから、そんな風に言わないで!」
と怒られたものだ。
水島が亡くなったとき、「新ちゃんが亡くなったんだって」と手を合わせていた。
逝去を報じる一般紙やスポーツ紙を母は大切に保存している。
(敬称は略させていただきました。)
参考資料
週刊少年キング、別冊少年キング、少年画報(少年画報社)
少年マンガ大戦争(本間正夫著 蒼馬社)
少年なつ漫王18号(アップルBOXクリエート)
水島新司全仕事(三栄)
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