1975年の がっぷ力

昭和50年、 1975年、少年キングはあわや廃刊の大ピンチに襲われます。
この年の新年号(1974年12月発売)は約60万部近い部数を発行し1963年の創刊以来、
最高の発行部数を記録します。
しかしこの頃、ライバルの少年チャンピオンは「がきデカ」(山上たつひこ)の
新連載が爆発的ヒット。100万部を軽々突破します。
同誌の急速な伸長に自社のキングを比較して、その差に不満をおぼえた少年画報社の
今井堅社長はキング編集部の主要メンバーの入れ替えを断行。
新編集長にヤングコミックの桑村誠二郎氏を抜擢し、その桑村編集長が「連載マンガ
の総入れ替え」に着手します。
人気No.1の「ワイルド7」No.2の「サイクル野郎」、菓子メーカーのロッテが
スポンサーだった「おれとカネやん」の3作だけ残し、他の作品をすべて打ち切ります。

打ち切ったからには、その分新しい作品を作らなければなりません。
しかし十分に準備せず、大人マンガの作家に連載を依頼。次々に始まった新連載ですが、
青柳裕介の「鬼やん」以外の作品は人気を得られず全滅しました。当然、部数は激減します。

そんな中でかつてキングで「おれの甲子園」(原作・神保史郎)で人気のあった
劇画家・かざま鋭二を投入します。それが相撲マンガ「がっぷ力」です。
原作は前年の1974年に「ここ一番!」「ごっつあん」の2 作の相撲マンガで実績のある
ベテラン原作者・吉岡道夫を起用して、本年はじめて少年モノの安定したコンビの作品で
苦境の打開をはかりました。

こうして編集部の大きな期待のもと、23号(6月2日号)から巻頭カラー(2色)
35ページで「がっぷ力」の連載が始まります。
表紙にも、マンガの扉(最初のページ)にも「かざま鋭二」の名前をこれでもが!
と大きく表示。原作の吉岡氏の怒りを買うのでは?と心配な扱いでした。

九州は熊本出身、16歳のやせっぽち少年、大石力(おおいし りき)が相撲社会に飛び
込んで、関取、大関、横綱を目指して奮闘し成長する物語は大々的にスタートします。

ところが新連載スタートで巻頭カラーだった「がっぷ力」が、2回目はなんと巻末、
一番後ろのページにされてしまいます。新連載で成功した作品は「鬼やん」一作しかない
という大ピンチのキング、「がっぷ力」を救世主と期待するなら、当然、第二回目は
少なくとも前のページでカラーにするはずです。

いったい編集部に何があったのか?台割(だいわり)=雑誌の作品の掲載順、はどう
やって決めたのか?小学生読者の私は「がっぷ力」が白黒の最終ページにされていて
驚いたのを覚えています。


次の第三回は前のページで4色カラー、四回目は後ろのページに戻って23ページと
編集部の迷走ぶりが伝わってきます。売り出す気が無いのか、と思いきや8回目の30号
では2色カラーになり23ページと、また盛り上げようとする意思が感じられます。

しかし10回目の32号で17ページになり、あきらかな代原(代わりの原稿)が4ページ
入ります。つまり21ページの予定が作者(かざま鋭二)が4ページ描けなかったという
ことになります。

さらに11回目は16ページ、代原4ページ、12回目は15ページ代原6ページと予定の枚数を
描けない回が続きます。その後も減ページが続き、とうとう17回目掲載予定の39号は
休載になってしまいます。ここでは1ページを使って休載のお知らせが掲載され、
手を痛めたかざま鋭二がお詫びする自画像があります。

17回目となる40号は20ページで、その後41号、42号は休載になり、18回目の43号は
巻頭カラー(4色)23ページ、表紙にも大きく大石力の絵が描かれ
「休養十分!かざま鋭二熱筆!!」とわざわざ書いてあります。

その「休養十分」のはずのかざま鋭二は翌44号の19回目は僅か8ページしか描けず、
12ページの代原が入ることになります。
ラストページの柱(原稿の欄外)に小さく、「今週の「がっぷ力」はかざま先生急病の
ため、中途で執筆不可能となりました。おわびします。」と担当者の謝罪文がありました。

次の45号は休載(代原6ページと14ページの2作品)となってしまいます。

そして46号の20回目で、ついに、いや、とうとう漫画家が浅井まさのぶ に変わりました。
これには驚きました。絵がまるっきり違うのですから当然です。
かざま鋭二は佐藤まさあき、川崎のぼる のアシスタントを経てデビューした
「劇画の申し子」。リアルで緻密な画は天才的と称されました。
一方、浅井まさのぶは丸っこいマンガらしい絵で昭和30〜40年代に大人気だった
貝塚ひろし の弟子で、マンガらしい絵を描く中堅作家です。
読者は多分「なんでこんな下手な画になってしまったんだ!」と落胆したと思います。
私もそうでした。しかし浅井まさのぶが絵が下手なわけではないのです。
元々の絵柄が違うのですから。

マンガ家が浅井まさのぶに代わってから、作品は後ろのページに固定されます。
編集部が見切りをつけたように感じました。そうして1975年の最終号、52号の26回目で
最終回になりました。多分、かざま鋭二が「もう描けない(描かない)」となった
19回目で編集部はこの作品を打ち切るか、別のマンガ家を立てて続けるか?の判断を
迫られたと思います。

そして「続行」の結論とともに「敗戦処理」として浅井まさのぶに残りを託したのだと
考えられます。
気の毒なのは応援してきた読者(私も)と原作の吉岡道夫でしょう。
調べると、かざま鋭二はこの1975年、海商王(少年マガジン、原作・雁屋哲)、
純愛物語(漫画ゴラク、原作・神保史郎)、野球魂(漫画アクション、原作・佐々木守)
と、かなりの作品を執筆しています。中でもマガジンの海商王はその雑誌の大きさから
絶対落とせないものであったに違いありません。
かざま鋭二が週刊少年キングの「がっぷ力」の連載を続けられなかったのは、
ひとえに注文の受けすぎ、オーバーワークが原因なのではないか、と思います。
(敬称略)
資料 週刊少年キング/少年画報社

がっぷ力 連載リスト

1975年23号 新連載
6月2日(23号)1巻頭カラー(2色)35ページ
6月9日(24号)2最終ページ、27ページ
6月16日(25号)3扉4色カラー22ページ
6月23日(26号)23ページ
6月30日(27号)5、20ページ
7月7日(28号)6、22ページ
7月14日(29号)7、23ページ
7月21日(30号)8、扉2色カラー、23ページ
7月28日(31号)9、21ページ
8月4日(32号)10、17ページ(4ページ、宮奥龍「ショクジン」)
8月11日(33号)11、16ページ(4ページ、もりかわけいじ「どうしたこじろうくん」)
8月18日(34号)12、15ページ(6ページ、おづ 「二軍の巨人VS阪神」)
8月25日(35号)13、19ページ
9月1日(36号)14、16ページ
9月8日(37号)15、19ページ
9月15日(38号)16、16ページ
9月22日(39号)休載
(12ページ、日大健児、にげたしたメダマ
8ページ、やまもとさむ、勉強なんてくそくらえ!!)
9月29日(40号)20ページ
10月20日(43号)巻頭カラー(4色)23ページ
10月27日(44号)8ページ、(12ページ、保谷良三、Drヤブヘビ)
11月3日(45号)休載(6ページ、おづ、千代田区三崎町、14ページ、風忍、正義のミカタくん)
11月10日(46号)浅井まさのぶに代わる 20ページ
11月17日(47号)21ページ
11月24日(48号)19ページ
12月1日(49号)20ページ
12月8日(50号)20ページ
12月15日(51号)20ページ
12月22日(52号)20ページ 最終回