少年キングと森田拳次
●日本に帰国後にキングのレギュラーに
「モリケン」というと俳優で県知事の森田健作ではなく、マンガ家の森田拳次というのはマンガファン、少年キングファンの常識でしょう。私が1974年から少年キングを購読するようになり、すぐに森田拳次の「3の3の3」がスタートしました。森田は1961年(昭和36年)少年画報に「ポパイ」を発表して雑誌デビューし、またたく間に人気マンガ家となります。昭和30年代後半から40年代前半まで赤塚不二夫と人気を二分する売れっ子ギャグマンガ家でした。しかしギャグの本質を追求するうち、コママンガよりひとコママンガに可能性を見い出し、40年代半ばに10数本の連載マンガを終わらせて、ひとコママンガの本場アメリカに移住します。アメリカでの修行を終え帰国しますが、日本でのひとコママンガは新聞の風刺マンガくらいしか無く、森田は少年誌にギャグマンガを再び描き始めました。しかし少年誌でのブランクは大きく、時代は赤塚不二夫一色でした。森田は人気絶頂のころ、多忙をきわめて少年キングでの連載作品は少なく、帰国後にキングのレギュラーになります。きっかけはキング副編集長・馬島進に声をかけられて、1973年(昭和48年)1号から空手劇画「さむらいカポネ」の連載をスタートさせたことでした。同作を39号まで描いたのち、「本職」のギャグマンガ「流行性かん坊」を42号から始めます。そして’74年の9号から「3の3の3」を開始、私はこの作品で森田拳次と出会います。私はそれまで「森田拳次」といえば「丸出だめ夫」や「ロボタン」の作者、という程度の知識しかありませんでした。ですから「3の3の3」を読んで”モリケンギャグ”に親しみを感じるようになったというわけです。
空手劇画を新連載!!
ギャグマンガに戻りました。
●味のあるモリケンマンガ
森田拳次のギャグマンガは決して新しいものではありません。むしろライバル赤塚不二夫と較べてスローテンポで突飛な絵・コマ割り・急な転回は少なく、のんびりした感じです。森田は大人気のころからトビラの絵をひとコママンガにしていて、「3の3の3」でもトビラを見るのが楽しみでした。ドタバタよりストーリー性のあるギャグマンガで、オチもきちんとあり、”ギャグマンガ”という言葉がまだ無いころの”ユーモアマンガ”の系統といえます。「3の3の3」でとくに面白かったのは、”セコい悪ふざけ”でマンガの中に実名の商品を出して勝手にPRして、次の号でその会社から商品がいくつ届いた、ありがとう、と報告するのです。作者がその商品をひとり占めしたのか、編集者に分けてあげたのかは知りませんが、自分の作品の中でこういうセコい儲け方をするのは私の知る限り森田だけで、もちろんそれは立派なギャグになっていました。赤塚不二夫が平気で手抜きマンガを描いても森田拳次はいつも”ちゃんとした”ギャグマンガを描いていました。「3の3の3」は翌’75年18号まで1年以上続き、日大健児の「ドッキリ仮面」とともにキングのギャグマンガをけん引きしていました。
1975年の「少年キング誌面大刷新」で森田はキングから事実上”追放”されます。しかし同じ’75年春に創刊された増刊少年キング・オリジナルに移り、こちらのレギュラーマンガ家として活躍します。「モリケン・ギャグ」は同誌が’77年に休刊になるまで続き、私たちファンを楽しませてくれました。週刊少年キングには編集長が変わった’76年にカムバックして、連載こそありませんでしたが、知編の読み切りギャグを多数発表して、”モリケンここにあり”をアピールしました。
おなじみトビラのひとコママンガ
カメラメーカーをちゃっかりPR
少年キングオリジナルのレギュラーに
休刊まで連載は続きました。
●キングとモリケンの幸せな蜜月
1973年から1975年までの3年間、森田拳次はキングのレギュラーマンガ家でした。そして「3の3の3」はモリケンギャグの真骨頂でした。森田はその後、念願のひとコママンガを大量に発表して、海外の有名な賞を取るなど活躍します。
森田拳次のマンガ(ギャグマンガ)は赤塚不二夫と較べて不当なまでに評価が低く、単行本になった作品は「丸出だめ夫」などわずかです。プロダクション・システムでアイデアをスタッフが考えていて、大勢のアシスタントが絵を描いていた赤塚とは対象的に、森田は作品のすべてを1人で描いていました。(大人気時代をのぞく)それを考えても、森田のマンガは量も質も赤塚に負けていないと考えます。モリケン・ギャグが埋もれることなく、これから復刻出版されることを、心から願います。(敬称は略させていただきました。)
参考文献 週刊少年キング(少年画報社)
増刊少年キングオリジナル(少年画報社)
少年画報大全(少年画報社)
私笑説・だめ男はつらいよ 森田拳次・著(亜紀書房)
少年なつ漫王・18(アップルBOXクリエート)
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