少年キングと永井豪

 彗星のように現われた人気マンガ家、永井豪。少年ジャンプの「ハレンチ学園」でメガヒットを飛ばし、その名を不動のものにしました。少年画報社では少年画報が永井に早速アプローチし、1969年(昭和44年)「学園番外地」(永井豪+石川賢)という “「ハレンチ学園」の二番煎じ″ のようなマンガを連載させます。そのころの永井豪の人気は凄まじく、すべての少年誌から執筆依頼が殺到したそうです。

そのため永井は少年画報での作品を石川賢(永井のアシスタント兼パートナー)との共作としました。以降、永井はサンデー、マガジン、ジャンプ、チャンピオンの4誌よりキングを一段下に見て、作品は発表するものの、殆んどはアシスタントの共作か別人の執筆になります。何故  “一段下に見た”  のかは永井自身が発言していないため分かりません。もちろん  "一段下に見て” というのはキングファンの私の印象です。永井豪がはじめて少年キングに作品を寄せたのは1972年(昭和47年)3・4合併号から8号まで5回の短期連載となる「スポコンくん」というギャグマンガでした。そのころ永井は "週刊少年誌5誌すべてに連載する” という "野望” を持ち、「スポコンくん」を始めたのですが、さすがに5誌の連載はあまりに過酷で自ら降板を申し出て短期の連載に終わりました。

当時、私はまだ少年キングの購読はしていませんでしたが、のちに単行本で読むとこの「スポコンくん」は永井本人自身が描いたものであると、その絵柄から確信しています。

「増刊キングオリジナル」の看板作品

●大ピンチのキングを永井豪が助ける

  しつこいようですが、1975年にキングはヤングコミックの桑村誠二郎を編集長に起用して誌面大刷新を計るもののこれが失敗し、わずか半年もたたずに部数は半減します。窮地に陥ったキング編集部が救いを求めたのだが、増刊少年キングオリジナルの「リョコー少年団」(永井豪+石川賢)で人気を得ていた永井豪でした。そのころの永井は”ウルトラ・ビッグネーム”でなんとキングは連載が始まる前から表紙に「次号から豪ちゃんの連載がはじまるでガスよー!」と入れました。表紙に次号予告が入るなど少年誌では前代未聞、読者の私も「こりゃすごい!」と楽しみになりました。その永井の新連載が’75年の34号から始まった「心霊探偵オカルト団」(原作・高円寺博 絵 永井豪/石川賢)でした。原作つきというのは永井豪にしてはめずらしいな、とは思いましたが、天下の永井豪が我がキングに描いてくれるのです。
「オカルト団」という少年・少女たちが”超常現象”と立ち向かう冒険モノです。しかし面白いかどうかは別にして絵は明らかに石川賢のものでした。というより、石川賢が永井豪の絵に似せたような絵というのが正確でしょうか。「リョコー少年団」でもどうも永井豪の絵とは違う、”永井豪”といたる所に大書しながら、また別人が描いているのか、と私はがっかりしました。私は何故、永井豪と言いながら石川賢が描いているのか、と少年キングオリジナル編集部に手紙を出しました。そのことに関する返答が編集部の坂本晃氏から届きました。私信ですが一部を転記させていただきます。「リョコー少年団は、永井豪先生がネーム(せりふ)と下絵を入れて、石川賢先生がペンを入れている作品です。編集部としても、こういう傾向はなくすつもりですが、永井先生が多忙のため、やむをえずこの形式になっています。もうしばらくごしんぼう下さい。」(原文ママ)「ごしんぼう下さい。」と言われても、他誌では永井豪本人が描いているのに、どうしてキングだけ…。読者の私は割り切れない思いがしました。
「心霊探偵オカルト団」は中盤からラストまで石川賢ワールドが全開でもはや永井豪の作品というイメージは跡形もありませんでした。
しかし断崖絶壁に追い込まれた少年キングは「永井豪」という”名前”に助けられたのです。この作品が人気があったか否かは分かりませんが、1年弱、76年22号まで続きました。

前代未聞!表紙に次号予告が!

少年キングならではの
「ダイナミックプロ」総力作品