北見けんいち 先生と少年キング

私が「少年キング」を読み始めたのは1974年(昭和49年)からですが、ギャグマンガはどれもイマイチでした。赤塚不二夫の「ギャグギゲギョ」、森田拳次の「3の3の3」、よこたとくおの「タマオキくん」、日大健児の「ドッキリ仮面」が4大ギャグ。看板のはずの赤塚マンガは、特定の主人公(キャラクター)のいない実験的作品でしたが、子供の目にも手抜き感がありありでした。
そんなとき、それとなくはじまったのが北見けんいちの「マンバカまん」です。たった6頁のショートギャグでしたが、マンガ家を目指す主人公の『マンガ家ギャグ』で先行4本の作品を抜く面白さでした。1974年の28号から翌75年の18号まで続いたのですから立派な長期連載です。”ウィキペディア”では1979年の「どじょっこふなっこ」(少年キング)が北見先生のデビューとされていますが、『少年週刊誌連載デビュー』という意味では、正確には「マンバカまん」が最初なのです。この作品は師である赤塚先生の影響をモロに受けたもので、ギャグも絵柄も赤塚テイストです。もし北見先生がどこかで「どじょっこふなっこ」がデビュー作だとおっしゃっていたのだとすれば、「マンバカまん」は赤塚先生の”マネ”なので、これを最初とは言いたくなかったのかも知れません。私は北見先生にファンレターを出し、マンバカの絵が描かれたお返事をいただいたので、ちょっと悲しい気がします。(北見先生のハガキは今回、見つかりませんでした)ちなみに北見先生の少年画報社初登場は1971年(昭和46年)「少年画報」第7号の「ゲンロク家族」のようです。(読切)
北見先生は赤塚先生のアシスタントとして、少年キング担当のアイデアスタッフだったそうですから、赤塚不二夫の「ギャグギゲギョ」「オッチャン」「コングおやじ」「アニマル大戦」と続いた連載マンガに協力していたと思われます。長く赤塚先生の”縁の下の力持ち”だった北見先生は、ようやく1978年から”完全オリジナル”の作品を発表しはじめ、「お笑い長太(1978)」、「どじょっこふなっこ」、「かがやけ純平(1980)」、と独自のいまに続くキャラクターと細かな背景の『北見マンガ』を確立していきます。この少年キング連載3作は、ギャグマンガではなく、『ユーモアストーリーマンガ』と言えるものでした。このように少年誌ではキングをホームタウンにしてくれた北見先生。『少年キング出身の巨匠』と言ってもいいでしょう。キングファンとしては、大いに誇りに思います。

参考文献   週刊少年キング(少年画報社)
       少年画報大全(少年画報社)
       少年なつ漫王18号(アップルBOXクリエート)
       マンバカまん(北見けんいち/曙出版)